kokoro-zの日記

心のうちを曝け出す。

今日は相当頑張った自分を褒め称えたい。

今日はフルで仕事をした。仕事の強度は置いておいて、完了出来たことが嬉しい。以前よりも確実にメンタルが安定していることを実感できた。これは日々のルーティーンのおかげなのだろうか。個々の力は弱くとも、継続の強さと複数による結集でメンタルの受け皿ができたということだろうか。夜しっかり寝て起きる時間を固定、朝起きて瞑想、新聞コラム写経、朝の散歩に匹敵する運動。心身の健康に良いよと言われることは大体網羅して継続している。これはすごいことなのではないだろうか。もっと自分をほめてもいいのかもしれない。ただ理不尽への耐性は相変わらず低いままだ。今日も些細な理不尽に対して、割と瞬時にイライラしてしまった。瞬時というのは、実は前よりいいのかもしれない。前はかなり時間差があったように思う。イライラしている自分に気付けているというのは大きい。すべての慣れの基本はスモールステップであると最近になってようやく悟り始めた。理不尽に関する耐性も、おそらくスモールステップで乗り越えられる部分は今自分が思う以上に大きいような気がする。ただ、理不尽とは外部からの刺激であり、なかなかスモールから受けることが難しいということである。どんなに優しい環境を選んでも、突如外から剛速球で飛んでくるものである。そこに人間がいる以上、顧客だろうがなんだろうが起こりうる。多くの傷つきやすい人たち(僕もそう)はその事実を前に呆然と立ちつくしてしまうのだ。引きこもりは、スモールステップが許されない現実に対する諦め状態ともいえる。こんなことを書いていると、甘えるな、だから人生なんだ、覚悟をもって荒野に駆り出せ、とか叱咤激励が飛んできそうだ。理不尽におびえる繊細な人たち(これも僕)はその善意なる応援は、慮りのない押し付けにしか受け取れない。感覚の差異を理解しようとせず自分の考えを押し付けてオナニーする人達に対して、いつしか憎しみすら抱くようになるだろう。いったいどうすれば…わからないが、今日は乗り越えられたので私は気分が良い。ただ歩きはじめた先にルーレットのような運で致命傷を裂け、結果的に自信がついていくものなのかもしれない。乗り越えて気分が高揚すると、つい意志が大事などと呆けたくなる。運などという言葉を出すくらいなら意志をもって飛び込めや。そう豪語したくなる。しかし、そんな上澄みだけの言葉は、自己啓発本からだけで十分だろう。ともしびの意志のもと、どこともわからない森に放り込まれるサバイバル。いつしか乗り切れるかもしれない。また致命傷を負うかもしれない。そんなギリギリの世界で僕らは生きている。今日もありがとう。