kokoro-zの日記

心のうちを曝け出す。

また自分のことがわかった

僕は発達障害だ。ASD傾向が強い。今日も自分のこだわりで家族と喧嘩になった。『自分で気づけない思い込み・こだわり』によるものである。世界共通の常識であり神羅万象であり誰もが犯すことのできない領域とやらが自分のなかにはあるらしい。それを侵害されると、猛烈に怒る。相手が認めるまであるいは屈服するまで絶対に許さない。そんな激情さを突如にしてみせてしまうのだ。今回は自分が一旦託されたことであるのに、ちょっとだけ手を出され先にやられていた。それには相手側にもちゃんとした理由があったし、事を進めるには仕方のない判断であった。なのに、僕はその行為を聞いて激昂した。事後報告であるにせよ本人から伝えられたにもかかわらず。本来なら、あーそうなんだ。代わりにやってくれといてありがとう。と誰しもが言うよなシーンなのだ。自分で言っておかしいが、何時間も経って、なんとか視座を上げようと努力した結果、やっと一般視点が持てたということ。その視点があるまでは、この理屈がわかったとて、怒りは冷めやらなかった。なぜ視点が持てたかは、やはりそれもその後、もう一度話し合って、こちら側の思いに対して承認を得れたからであった。かなしいことに、いまだ相手が受け入れないままであれば、怒りや冷めやらなかったに違いない。自分はこういう考えをもって怒ったという気持ちを向こうが真剣に聴いて受け入れたので、私の怒りは収まった、ということなのである。なんとも、幼稚で手の付けられない大人なのだ。自分で語って恥ずかしい。ただこの一連の出来事は今日に限らない。今までのトラブルの要因はすべてこういった一見幼稚、いやどうみても幼稚かもしれないが‥とにかく強烈な信念、思い込み、こだわりによるものなのだ。最近は激昂するといっても、きわめて論理的に説明的に話そうとしている。自分はこうしてほしいのだ。「託してほしいから勝手にやらないでほしい」という文言では伝えている。ただし結局はきわめて強い口調なので、相手は面食らってしまうことに変わりはないのだ。しかもそんな些細なことで託す、託さないと重いことを言われても…という苛立ちが相手も湧いてくるだろう。せっかく気がついてやったのに、という思いも湧くかもしれない。でも私はそこに対する想像力はないのである。自分がやると決めたことを侵害された気持ちで一杯なのである。中途半端なことをするなら頼むな とでもいおうか。今こうやって客観視出来ているのだから、その場なんとかなるもんではないのか、という疑問がわいたかもしれない。自分でもそう思うのだが、実際になると出来ない、すぐに気付けないのだ。なんてことだ。でも訓練すれば気付けて、我慢できるようになるかもしれない。しかしもう、何十年もこのスタンスなのである。しかもかなり速い段階から。物心ついた3歳くらいだろう。我慢すればいいという意見はごもっともだ。実際他人との関係においてはかなり我慢してきた。ある程度空気を読む、というか他の機能を駆使して読んだことする、偽装にてやり過ごしてきた部分もある。そうやってうまく乗り越えたようで、自分のなかでは消化しきれていない。とんでもない『憎悪』となって今も脳のなかを這いずりまわっているのである。とある言葉ひとつでその憎悪が唐突に暴れ出しコントロールが難しくなることがある。憎悪の悪魔を一匹ずつ、脳の外に逃がしてあげたいのだ。その手段が、日記であり、小説なのかもしれない。にがせ、とばせ、あわよくば成仏させよ。今日もありがとう。